深野 治




温泉を愛した芸術家群像 A

  vol.2 田中一村−黒潮の奄美で開花した天才画家
                        

日本のゴーギャンと呼ばれる画家、田中一村。ゴーギャンがパリを捨ててタヒチ島で強烈に生き切ったように、一村もまた東京に決別して奄美大島で孤高の画境を開いた。このドラマは、すでに現代の一つの伝説となっている。それにしても、一村はなぜ東京を捨てたのか。奄美で何をつかんだのか。黒潮うねる潮流を思い浮かべながら、この二つの問いに絞って、南島に生きた画家・田中一村に照明を当ててみよう。

東京で育ち千葉にアトリエを持っていた田中一村が、齢五十にして、突然なぜ何もかも捨てて、はるか南の島に居を移したのだろうか。
そのきっかけになったのは、一九五五(昭和三十)年夏の九州旅行だった。
梅雨明けを待ち兼ねて、紀州から四国を経て九州へ向かった。湯布院から高千穂を越えて南下し桜島で噴煙を仰いだ。さらに黒潮の南の海路に引き寄せられ、種子島、屋久島、トカラ列島まで船を乗り継いだ。この旅の途中に描いた作品がいくつか残されている。
「由布風景」は、高原の烈しい光をはねかえすように花茎をひろげたシシウドを前面に配し、遠景に夏雲の下の由布岳を低くとらえている。かなり高いところまで登って眺めた構図だ。きっと下山してゆったり湯に浸ったことだろう。
高千穂でもシシウドやカミツレをクローズアップしている。普通は人が目に留めない雑草である。それらに一村が託した胸のうちが察せられる。それは切ない孤独感であったと同時に、南国九州の夏の光がもたらした再生の予感であった。
南の島の浜辺で描いたのものだろうか、ハマユウの絵もある。その視線のずっと先に奄美大島があった。そこに行き着くのは、それから三年後である。
田中一村は、自ら骨を埋める場所を探すかのように奄美大島に移り住み、誰にも知られぬ孤独と貧窮の中で新しい画境を切り開いた。そこで開花した日本画の力強いエネルギーは人々の心をとらえて離さない。

ここで、一九五五年という時点まで歴史を戻して「奄美」の存在をふり返ってみよう。 大島、喜界島、加計呂島、徳之島、与論島などからなる奄美諸島は、敗戦によってアメリカの統治下に置かれた。日本に復帰したのが一九五三年十二月。沖縄はまだ戻っていなかったが、戦後の一つのけじめとして全国の耳目が集まった。千葉に住んでいた一村も何がしかの関心は抱いていたに違いない。
しかし、関東から見れば南海洋上の奄美は、はるかに遠い。トカラ列島まで足を伸ばした一村が、何の縁もない奄美にいきなり移住しようと決意したとは考えにくい。
ふと勘が働いて、私は、奄美を舞台に数々の名作を発表した作家・島尾敏雄の年譜を開いてみた。「一九五五年十月、千葉県市川市から奄美大島の名瀬市に移住」とあった。田中一村が南海旅行から千葉のアトリエに帰った同じ年の秋のことだ。
当時、文壇で注目されていた新進作家の動向は、地元でも話題になったろう。移住後、島尾敏雄は「われ深きふちより」「島の果て」など珠玉の短編を次々に発表する。島では図書館の分館長の仕事も引き受けている。自分より十歳ほど若い作家の生き方が、九州旅行の感動と重なり、新しい道を探っていた一村の心を揺さぶったのではないか。
一九五八(昭和三十三)年、田中一村は千葉のアトリエを畳んで、奄美へ向かった。結婚もせず、ひたすら一村を支えてくれた姉喜美子にも別れを告げた。一村、五十歳の年の暮れだった。現地から千葉の友人に手紙を書いた。
「今、私がこの南の島に来ているのは、歓呼の声に送られて来ているのでもなければ、人生修行や絵の勉強に来ているのでもありません。私のエカキとしての生涯の最後を飾る絵を描くために来ていることがはっきりしました」
後に、埋もれていた田中一村の存在をテレビの特集番組で世に知らせたNHKディレクター松元邦暉が、島に来たばかりの一村の様子を取材して伝えている。
「一村には見るもの全てが新鮮だった。アダン、クワズイモ、ガジュマルといった亜熱帯特有の植物や、原色の色彩の熱帯魚など、珍しいものは何でも写生した。魚は鱗を一枚一枚ピンセットで剥がしながら写生した」

一村の本名は田中孝。一九○八(明治四十一)年、栃木県栃木町に生まれ、四歳のとき一家そろって東京に移った。彫刻家の父・田中弥吉(雅号、稲村)の血をひいて、幼い頃から絵にすぐれた才能を発揮し、七歳にして父に「米邨(べいそん)」の号を与えられた。
早熟の天才だった。七歳のとき児童画展で文部大臣賞を受賞し、八歳のころから少年が描いた文人画ふうの絵を父親が売り立てに出している。美術名鑑にも名が出ている。
一九二六(大正十五)年、東京・芝中学を卒業して、東京美術学校(日本画科)に入学した。受験者百人のうち合格者は二十人の難関だった。同期に、のちの東山魁夷、橋本明治らがいた。だが、十八歳の田中米邨はわずか三ヵ月で退学した。なぜか−
それは、米邨の才能が文人画の世界で育まれたことに由来する。
天才、神童ともてはやされて入学した美術学校には、大正の自由な空気を吸って育った俊秀が全国から集まっている。しかも主任教授は旧来の文人画趣味を破壊して新しい日本画を打ちたてた横山大観である。文人画系の画風など古臭い、と一蹴されてしまったであろう。それは、それまでの自負を粉々にしてしまうほどの衝撃であった。田中米邨が味わう最初の屈辱であり、挫折だった。学校に留まるには、余りに彼は誇り高かった。
その後、師にも就かず独学の道を歩いた米邨は、戦後の一九四七(昭和二十二)年、三十九歳のとき、雅号を改めて「一村」とした(しばらく「柳一村」も用いている)。
一村の画帖(スケッチブック)に、雅号の由来を語るように、中国・宋の陸游の詩が写されている。
山重水複疑無路
柳暗花明又一村 (陸游「遊山西村」)
山は重なり川は入りくみ、道を見失ったかと疑っていると、
柳の木陰の暗い先に花が明るい景色が開けて、小さな村があった
この漢詩の意味も、そのころの彼の心境にふさわしい。折りから敗戦後の日本に、新しい機運が起こっていた。カムバックを期して川端龍子が主宰する青龍展に出品、入選を果たした。それも束の間、翌年には川端龍子と絶縁する。日展にも落選が続いた。

一村は独立独歩の道を進む。鋭い観察と緻密な構成力に支えられた装飾性にあふれる作品を、彼をよく知る人のためにだけ描き続けた。それでも自分自身に満足できなかった。奄美から友人へあてた手紙に記している。
「絶対に素人の趣味なんかに妥協せず、自分の良心が満足するまで、練り抜くことです」 そのための奄美移住であった。一九五八年から一九七七年までの十九年間の奄美時代はすでに田中一村伝説となっている。あえて伝説という理由は三つある。
第一は、死ぬ瞬間まで、張りつめた弓矢のように絵を描くことに集中した孤独な画業のこと。第二は、その絵に描かれたの題材が、旧来の日本画ではきわめて珍しい、南海の島奄美の植物や鳥、魚たちだったこと。第三は、死後にようやく人に知られるようになり、やがて爆発的に全国から注目を浴びた発掘劇による。いずれも、これまで本に書かれたり、テレビ番組になったり、展覧会で紹介されたりしている。
奄美での一村は、最初三年ばかりは間借りしながら絵に専念していた。だが、売り絵は描かないと決意していたから、しだいに困窮してくる。やむなく大島紬の工場に摺り込み染色工として働きはじめる。その五年間に食事も切り詰めて貯えた金で、再び絵に打ち込む。金が尽きると、また染色工になる。
同じ時期、同じ名瀬市に作家の島尾敏雄がいたが、二人が接触した形跡はない。職場の仲間にも絵を描いていることを秘すほど孤独を守った一村の生き方だった。一九六○年代以降には、民俗学者・柳田国男「海上の道」の刊行で南島ブームが起こった。その時流に乗ろうと思えば乗れなくもなかったのに、一村は徹底してそれに背を向けた。
六十四歳、あばら家で絵筆を握る一村は身体を壊した。それでも描き続けた。すさまじい執念だ。この執念、強烈な精神力の源泉を、どう読み取ればいいのだろうか。
奄美の自然−海が、森が、アダンの木やビロウの木が、ソテツやクワズイモが、ダチュラの花やブーゲンビレアが、小鳥のアカショウビンや蝶のアサギマダラたちが、一村の画心を引きつけてやまなかったことは疑いない。
加えて、田中一村の心の奥深く熱湯のように煮えたぎる執念があった。それは、幼いときから神童であったがゆえに刷り込まれていた文人画からの脱却であった。
文人画はもともと深い教養に裏づけられた知識人の心境を現すものとして中国で発達した。その画風が江戸時代の日本の趣味人に喜ばれて栄えたが、いつしか形式的な花鳥画に堕ち込み、明治の新興日本画の運動で否定された。その身になじんだ画風が、なまじ腕があるだけに「米邨」時代も「一村」になってもずっと苦しめ続けた。天才の苦悩である。 奄美で、それまでの日本画の題材にない対象と出合った田中一村は、画家として生まれ変わるチャンスをつかめると確信した。それが、ひたすらに、ただひたすらに画境を開き高める十九年の精進であった。奄美の一村の座右にあった画集は、千葉時代に愛した中国・清の文人画家呉昌碩(ごしょうせき)のそれではなく、めくるめく変身を続けたピカソの画集だった。そこにも、彼の意欲の一端がうかがわれる。
そして遂に、大作「奄美の杜」七点のシリーズを描きあげた。田中一村が言い残した「閻魔大王へのみやげ」だった。日本画の歴史の厚い壁を、南海の森と海のエネルギーが突き抜けた。
一九七七(昭和五十二)年九月十一日、昼の制作を終えて夕食の支度をしていた一村は心不全で倒れた。六十九歳だった。
二年後、奄美の名瀬市で遺作展が開かれた。NHKテレビ「日曜美術館」で全国に紹介されたのは、さらに五年後であった。
そして、没後二十五年目になる昨年十月、奄美空港跡地の県立公園・奄美パークの一角に「田中一村記念館」が完成した。

                                               深野 治

BACKNUMBR温泉を愛した芸術家群像

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古湯温泉と青木繁


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